新宿には4丁目がある。
しかも、JR新宿駅の新南口から、徒歩1分のところに。
高島屋タイムズスクエアの裏手にかくれて、ひっそりと。
ゲイタウンとして有名な2丁目、「新宿3丁目」という名の駅もある3丁目、ときて、4丁目があるのは至極当たり前のことなのだが、 「実は、あるのだ」と言いたくなるほどそれはひっそりと人知れず、あるのだ。4丁目が。

3丁目と渋谷区千駄ヶ谷と新宿御苑とに囲まれた、ごく小さなエリアである。
昔、ここは「旭町」という町名だったが、1952年(昭和27年)、町名変更により「新宿4丁目」となった。 江戸時代の内藤新宿の頃から今日まで、貧しげで、いかがわしく、うしろめたいような、 湿潤を帯びた土地柄なのだ。
江戸時代は飯盛女(私娼)を抱える旅籠が立ち並ぶ下級の遊郭。 明治政府には「木賃宿営業区域」と指定される。 戦後の混乱期にはいわゆるドヤ街と呼ばれた。立ちんぼのいる光景もあったという。 また、昭和30〜40年代には連れ込み宿の逆さクラゲ(温泉マーク)の看板が見られたそうだ。

そして今も、明治通りをはさんで東と西とに分断されている新宿4丁目のその東側エリアというのは、 素泊まり1泊2千円程度の旅館や4千円程度のビジネスホテルが軒を連ねる安宿街だ。 隣接する千駄ヶ谷5丁目の広大な建設予定地をよそに、なぜかこの一帯は地上げの手には落ちておらず、 木賃宿街の面影を残している。
明治通りの西側(高島屋と隣接するエリア)は、スターバックスコーヒーやジャーナルスタンダード等が こぎれいに建ち並び、 繁華街の賑わいを見せている。 この西側エリアにも、最近まで桂屋旅館という木造二階建ての旅館がたったひとつ残っていた。 そのぽっかりとそこだけ時空の歪んだような異質なたたずまいは、 新宿駅の新南口から高島屋へと向かうデッキから見下ろすことができ、ある種、南口の名物のような存在だったので、 記憶にある人も多いかと思うのだが、この桂屋旅館も2007年に解体されてしまった。
いつか、新聞であったか雑誌であったか媒体を失念したが、何かの記事で、桂屋旅館の主人が、 「うちは煎餅布団だし、南京虫も出ますよ」と語っていたように記憶している。
煎餅布団に南京虫の跡地は、ZARAという海外ブランドの店舗になっている。

高島屋と、その東側にある「東横生コン」というセメント工場とのコントラスト。 こんな場所でこの小さな工場がよく続いていると思う。
(※画像にマウス・オンで説明が出ます)
高島屋の入口付近より北を臨む。明治通りの西側(写真でいうと左側)に名残りはすでに皆無だが、 東側に木賃宿の風情がいくぶん残っている。

明治通りから東のエリアへ入って最初に出会う、ユースホテル相模屋支店というビジネスホテル。 宿泊料は3000円。
奥に見えるビルは高島屋。
相模屋の待合室。このような昭和テイストのテーブルやソファなどは、 近年中古家具市場でも人気があり、リプロダクションされていたりもする。 ここには、ただ当時から変わらずにそこにあり続けているだけだ。

相模屋を通り過ぎて少しゆくと、旅館喜多野があった。
喜多野の玄関。
こちらは宿泊料は2100円である。

2009年3月に訪れると、看板が取り外され、廃業していた。
曲がり角を曲がり、北へ、甲州街道のほうへ向かうと、旅館中田屋がある。 なかなかのうしろめたさを醸す宿である。
ここは今までの二軒よりさらに安い1800円。個室は2200円。 1800円のほうの部屋は、相部屋だろう。

中田屋の右側は駐車場、左側は私道となっており、建物の全体像が鑑賞できるのが嬉しい。
なにしろ、二階部分がこれである。窓が上下二段に分かれているのだ。 内部も上下に区切られているのだろうか。

窓が開いているすきに、ちょいと失礼して覗かせていただいたところ。
右下の窓から見える天井と蛍光灯の位置は。本当に上下に区切られている様子だ。
中田屋を通り過ぎると、この界隈で一番のうしろめたさを醸しだす宿があった。 連れ込み宿風である。
撮影した2007年の時点で看板はなく、すでに廃業していたが、 かろうじて玄関に屋号が残っていた。
屋号は変体仮名で書かれている。 二文字目は、「志」という漢字に似ているが、昔の「し」というかなの表記のひとつ。 かなが統一されたのが明治33年。それ以前から続いてきた宿だろうか。
なんと読むのだろうか。 変体仮名の一覧表と照らし合わせると、「よしにて」が近いように思えるけれど…。

「よしにて」(仮にこう表記させていただく)も、片方の側面が駐車場なのが嬉しい。
背後の建物は、都立新宿高校の校舎。
実に湿った雰囲気である。

実は、現在の高島屋タイムズスクエアの場所には、昭和の終わり頃まで貨物駅があったとのことだ。 かつて、旭町の木賃宿のすぐ横を、貨物列車が通り過ぎていたのである。
「人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出」と言った作家の林芙美子は、大正の終わりの頃、 男を頼りに東京へやって来た。 自叙伝『放浪記』によれば、東京で子守り女中をしたが、二週間でひまを出され、 その夜、行くあてもなくわずかな給金を持ってたどりついたのが、ここ旭町であった。 いわば東京での木賃宿暮らしの出発点である。
「三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中」で、 彼女は自分を捨てた男に、たよりにもならない長い手紙を書いてみたのだという。


  みんな嘘っぱちばかりの世界だった
  甲州行きの終列車が頭の上を通ってゆく
  百貨店(マーケット)の屋上のように寥々とした全生活を振り捨てて
  私は木賃宿の布団に静脈を延ばしている
  列車にフンサイされた死骸を
  私は他人のように抱きしめてみた
  真夜中に煤けた障子を明けると
  こんなところにも空があって月がおどけていた

  みなさまさよなら!
  私は歪んだサイコロになってまた逆もどり
  ここは木賃宿の屋根裏です
  私は堆積された旅愁をつかんで
  飄々と風に吹かれていた


嘘っぱちの世界でたったひとり貨物列車の通過する音を聞きながら、林芙美子がひとときの塒にしたのも、このような宿だったのであろうか。

「よしにて」は、2009年に訪れると、隣の駐車場ごと新しい建物になってしまっていた。 新宿4丁目では最古と見受けられる存在であっただけに、非常に残念である。
車のナンバーからいっても、元経営者の一家ではなく、他人が住んでいるようだった。

以上のような古い宿は今ではごくわずかであり、他はビジネスホテルである。 宿泊料は、他の地域よりは多少安い、4000円代といったところ。


まるで個人宅のようだがここも宿である。旅館やまと。宿泊料は2800円より。
ビジネスホテルのむら。待合室はやはり昭和の応接間テイスト。

ときにはよそ見もしながら歩いてみるのがいい。
電柱に記された「旭」の表示。旧地名である「旭町」の名残りである。
「追分」の表示。 江戸時代の内藤新宿のころ、今の伊勢丹の前の交差点のあたりが「追分」と呼ばれていた。 あの交差点にある交番は、「追分交番」という名である。

(架)日活線 (地)旭町線
こんなところで電柱に日活の文字を見つけるとは意外だが、 現在マルイのあるところに、かつて新宿日活劇場という映画館があったことと関係があると思われる。
ウィークリーマンションの前に停めてあった、ストリップ劇場の宣伝カー。 ここが欲望の街、新宿であることをふいに思い出すのだ。

甲州街道へ抜けると、あっという間の新宿4丁目散策は終わりである。ものの3分もあれば 通り抜けられる小さなエリアが、この木賃宿街だ。
甲州街道に抜けるおしまいのところに、雷電稲荷神社という小さな神社がある。
鳥居の向こうには、甲州街道をはさんだ新宿の街並み。

銅板葺き屋根の、小さいながらなかなか風格のあるお社。
親子狐は睦まじい様子のものが多いようだが、このように踏んづけてこらしめているような のはあまり見ないのではなかろうか。子狐のポーズが可愛い。

天龍寺。明治通りに面している。 先述の雷電稲荷神社は、神仏習合で、この天龍寺の鎮守であったといわれている。
内藤新宿に時刻を告げた、天龍寺の「時の鐘」。新宿区指定有形文化財である。 明け方、内藤新宿で夜通し遊興する客を追い出す合図は「追出しの鐘」とも呼ばれ親しまれた。

「三界万霊塔」とある、無縁仏が合葬された墓。 背景の建物はさきほど見てきたビジネスホテル群である。
左のお地蔵様は水子地蔵。
子供を弔う墓。 「○○童子」の○○の部分には、幼くして死んだ子供の生のはかなさを現す言葉をあてるものであるらしく、 これは「幻影童子」である。

どういうわけか観音様がずいぶんとすり減っている。
こちらなどはほとんど形がなくなっている。

内藤新宿の投げ込み寺としては2丁目の成覚寺が有名で、 死んだ遊女の遺骸は米俵にくるんで投げ込まれたといわれているが、 あるいはこの天龍寺にも旭町で死んだ女が投げ込まれたりもしたのかもしれない。
東京都新宿区新宿4丁目界隈
撮影:2007/9/23
2009/3/15